2014年2月12日

靖国神社の大村益次郎像についての批判

私は靖国神社に行ったことはないのだけど昨日ご紹介した亀井静香氏の指摘の通り、靖国神社の大鳥居を入ってしばらく行くと参道の中央に大村益次郎の銅像が立っているそうである。台座を入れると高さ12メートルを超える巨大なものらしい。





この巨像に見おろされながらその足元を通るのは、かつての賊軍なかんずく彰義隊に縁のある人にとっては気分の良いものではないだろう。像が建てられた当初「賊軍」ゆかりの人からしたら、股の下をくぐらされるかの如くであったに違いない。

さらに疑問なのは、天皇陛下もこの像に高い所から見おろされながら通られたのだろうかということ。
上から見おろすばかりか、参道の中央に立ってご通行を邪魔するという不逞ぶりである。まるで「長州にひざまづけ」と言わんばかりではないか。

失礼にもほどがあるし、それこそ「不敬」以外の何ものでもない。山本太郎の直訴などかわいいもんである。

これはいけません。
天皇陛下はもちろんのこと、国民の代表として総理大臣が参拝するのもふさわしいとは思えません。

−−
(写真は下記サイトのものを使用させて頂きました。)
東京発フリー写真素材集/神社仏閣〜その1
http://www.shihei.com/free01/shinbutu01.html

タグ:靖国
posted by ぱじぇんと | コメント(69) | トラックバック(0) | 本編
この記事へのコメント
この大層立派な銅像は明治15年、靖国神社側から出たお話に
大村益次郎の1番弟子だった内務卿山田顯義が
師匠を追悼して建立したもの。

山田市之允は桂小五郎、高杉晋作、大村益次郎に
抜擢され鳥羽伏見の戦い、北越の戦い、五稜郭の戦いでも
勝ち抜いた用兵、神の如しと言われている長州藩の若きエースです。

日本軍隊のスタートも大村益次郎と山田顯義のコンビでスタートしています。
大村益次郎は兵部大輔、山田顯義は大丞の役割で日本陸軍がスタートします。
紙切れ1枚に過ぎなかった大村の懸軍策を具体化し実践したのは
山田大丞です。国民皆兵制度(徴兵令の前身)、軍旗、軍服、士官学校など
日本陸軍の基本は山田顯義の推進力によってなされています。

数年後に西郷兄弟と山縣有朋が野合し
山田顯義は日本陸軍を追い出された形になります。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月20日 09:12
大村の七回忌法要
靖国神社の大村益次郎の銅像の発起人は門人の山田市之允です。
山田顯義がいなければ大村益次郎の銅像建立も大村の七回忌法要も
行われませんでした。

「明治八年十一月十六日、山田顯義の宅に亡友大村益次郎の
祭事を営めり。集会するもの宍戸環、中島佐衛、吉富某なり。
大村は乙丑の歳(慶応元年)、抜いて兵事の局に用ひ、
兵制改革を任ぜり。同氏大いに勉強、西洋の法に倣ひ、
防長二州の兵制を一様になせり」。

木戸孝允(桂小五郎)が亡友を
悼む鎮魂の言葉であった。大村が暗殺されて既に七年、山田顯義は
旧師の七回忌法要を自宅でいとなんだのです。

〇靖国神社と大村益次郎の幸運は陸軍中将山田顯義が銅像の建立される前年
明治25年まで生存したことだなぁ。山縣有朋は大村益次郎の弟子ではないからなぁ。
戊辰戦争の主役は大村益次郎の抜擢により山田市之允が務めました。
幕末の主役は奇兵隊ではなくて山田市の指揮する整式隊です。
大村益次郎は何処か陰気くさい山縣を嫌っていました。

師匠思いの山田顯義が顕彰したからこそ今も
高さ12メートルの大村益次郎が九段に聳え立つのさ。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月20日 21:36
師匠思い
伯爵山田顯義さんは靖国神社にある大村益次郎の銅像の建立を主唱した人物。
大村さんは20歳の山田顯義の軍事の才能を見抜き抜擢しました。山田さんは
大村師匠の殉難を悼み、銅像建立を主唱しました。

世田谷区にある松陰神社の石畳は、山田市之允(顯義)が中学生時代、
教育を受けた吉田松陰先生を追悼してのもの。五稜郭の戦いで
旧幕府軍を制定した後、師匠を追悼して石畳を敷きました。

山田顯義は軍旗や軍服、士官学校、軍事病院、教導団等軍隊の基礎固めに邁進しています。
でも明治新政府も勝ったから良かったものの負ければ賊軍。

鳥羽伏見の戦いも内心、徳川軍相手に山田市之允は勝てるとはとても
思っていなかったらしく、師匠の桂小五郎(木戸孝允)に
「再回帰しがたく・・・」と今までの恩顧に感謝の言葉を
述べています。

当時の状況は最悪でね。明治天皇の叔父さんに当たる中山忠光は
長州の山の中で俗論派により惨殺されています。山田市は中山忠光卿の
護衛に付いたこともあり寸でのところで命拾いしています。
鳥羽伏見の戦いではもしも敗れた場合、高校生の明治天皇を負んぶって
雪の山陰道を雪だるまになりながら長州まで
血路を開く心積もりでした。当時の危機一髪の状況では
明治天皇のお命だってどう転ぶか予想がつかない状況でした。

山田市が鳥羽伏見の戦いで発した言葉は「物陰に隠れて
銃を発射せよ。1対1の斬り合いは厳禁する」
「少ない兵を損ねてどうする」「無駄に命を粗末にするな」と柔軟で人命を
尊重しています。山田市は負けることも想定し、退却口まで想定していたことから
山田市之允は「小さなナポレオン」と言われました。
山田顯義は身長148aです。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月20日 21:53
瓢箪記        空斎 山田顕義 長門

この瓢箪は前侍従中山忠光から贈与された所なり。文久久葵夏、
忠光卿、大和から来りて我が長藩に身を投じる。
卿の宿は赤馬関の伊藤某宅也。

余は当時関に在り。日夕相往来す。一夕白石正一宅で陪飲す。
夜小舟に乗りこみ共に帰る。舟中、卿更に酒を命じ放吟劇談。
興陪加。中山卿酒量鯨の如し。

少量の酒に悪戦苦闘している余に、中山卿笑いながら腰下の瓢箪を取出して曰く
この瓢箪は流離艱難の時も我と運命を共にした愛用のもの也。然れども
この瓢箪は小さく私には不似合いです。君にはお似合いかなと瓢箪を
腰下から取出し汝の用には足りそうです
と愛用の瓢箪を余に贈与。

余はただただ嬉しく、拝受してこの瓢箪を受け取りました。


中山忠光
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4ADRA_jaJP362JP366&q=%e4%b8%ad%e5%b1%b1%e5%bf%a0%e5%85%89

中山忠光卿は天誅組の挙兵の後、長州藩に逃れたものの
長府藩侍によって二〇歳の若さで暗殺された。明治天皇の叔父にあたる。
一時期、山田顕義は公家中山忠光卿の護衛にあたっていた。

〇明治天皇に愛された人物では伊藤博文と西郷隆盛が有名ですが
山田顯義も非常に愛されました。山田顯義が悪性の肺炎になった時は
明治天皇は気が気ではなかったのです。辞表(司法大臣)を出しても天皇陛下は
却下、受理しませんでした。
逆に天皇に嫌われたのは黒田、陸奥、山縣、井上馨かな。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月20日 22:45
用兵 独り慕う ナポレオン
倒幕 「将発上國」
薩摩長州藩に倒幕の密勅が降り、まさに倒幕のために三田尻港を京に
向けて出航する寸前に書かれたと思われる慶應三年の山田顕義の
漢詩があります。

  建業唯希話聖東
  用兵独慕拿波翁
  半宵提剣看寒月
  千古興亡両眼中

  注 ワシントンはアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントン
    イギリスとの独立運動を指導しました。「話聖東」

    「 拿波翁」ナポレオン・ポナパルト(1769^^1821)
    「上國」上國。京都、大阪。
    「半宵」夜中。夜半。
    「寒月」冷たく光る真冬の月。

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 09:08
「勤皇の大義」
慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。

山田顕義は徳川軍相手に勝てるとは思っちゃあいなかったんだな。
鳥羽伏見で負ければ血路を開き、幼い明治天皇をおんぶして山陰道を逃げる算段をしています。
京都御所には二中隊を派遣。明治天皇は山田顯義をこの時初めて意識したんだと思います。
鳥羽伏見の戦いで勝てると思っていたのは山田市の師匠・軍師大村益次郎ぐらいのもんじゃぁないの。

「勤皇の大義」この一言の為に、長州藩サムライは一つしかない命を投げ出した。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 09:35
明治二年、父親山田顕行氏御逝去
「二月二二日、有家大人逝去の報、哀傷不禁」

  放游十歳業難為
  東馳西奔幾別離
  孝養更無酬膝下
  空開此翰泣天涯

   注
     家大人 父君
     孝養  親孝行
     膝下  親のそば
     此翰  この手紙
  

勤皇の大義
山田顕義は五稜郭に立て篭もる榎本武揚の旧幕府軍を追って
青森口に待機中、この手紙を受け取る。
寝たきりだった家大人は去る正月29日に47歳で世を去った。

勤皇の大義の為、重症の父親の見舞いもそこそこに国運を賭けて
出軍した山田顕義海陸軍参謀の双肩には長州軍千三百名を始め官軍全将校の運命が
重く圧し掛かっています.
  
  孝養更無酬膝下
  空開此翰泣天涯
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 15:24
懇切丁寧 清風明月是我心
戊辰の役は五稜郭の戦いを最後にピリオドを打つんだがな。
降伏の模様は箱館政府陸軍奉行大鳥圭介の手記に詳しい。

「五稜郭を出て亀田村の陣所に赴き、長藩の参謀山田某(市之允)に面接し、
戎器を脱しいずれも轎に乗り、長州兵に護送せられて箱館に行きたり。

轎中にて四人(榎本釜次郎、松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介)は
必ず屠腹(切腹)ならんと考えしに、
本陣の傍らなる猪倉屋と云える町屋に誘われたり。

護衛の天兵、長兵、そのほか交代ありたれども少しも
苛酷の取り扱いなく、酒肴とも丁寧をつくされたれば、
かえって意外に出て、不思議に思うほどなり」。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 16:05
満天の春色 白雲の香
五稜郭で戦った山田顕義と榎本武揚は実は仲がいい。
大の仲良しです。
明治22年の山田伯爵の作品です。
  「榎本氏、別荘偶作」

主賓別無く 酔って将に狂せんとす
吐き尽す 人間の妙 吟腸
一望墨堤 万寿の花
満天の春色 白雲の香
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 16:20
大村・山田の推進力と山縣有朋の調整のうまさ
山田市と木戸孝允(桂小五郎)にとって大村の暗殺はあまりに痛かった。
大村兵部大輔と山田大丞の2トップで天皇陛下の直属軍隊がスタートしたばかりだからね

山田と大村の共通点は視野の広さと思い込んだら命がけ、人の話を聞こうとしない点では?。

大村に干されていた山縣有朋が欧州から帰国したのは明治3年8月。
旧鹿児島藩と大村派それぞれの 建軍構想が鋭く対立していた時期に当たります。
山縣は大村益次郎の衣鉢を継いだ山田顕義の国民皆兵制度(徴兵制度の前身)は
まだ時期尚早とみていたものの、鹿児島藩との対決は回避を重視しています。

そこで山縣が取った戦術は大村・山田のフランス国兵式で兵制統一する事と
西郷隆盛を軍政担当首班(大将)にすること。
山縣は自ら薩摩国に出向き西郷担ぎだしに成功し、更に10月4日大阪に向けて出発し大村派山田顕義に
「徴兵法は当然にして素より余に於て異論なし」と明言し
万事面白相片附」ています。

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 16:42
山田顯義の強引さと山縣有朋の調整のうまさ
日本軍隊を創つたのは、誰でしょう??
大村益次郎でしょうか?山県有朋でしょうか?西郷隆盛でしょうか?
意外だと思われるかも知れませんが実は山田顕義です。

 大村が産み落とした卵を、山田顕義が叩き割り日本軍隊を誕生させたのです。

 明治始め、大村、木戸孝允、山田顕義ラインと大久保利通、西郷隆盛ラインが
軍隊の主導権を巡って激しく対立、既成事実を次々と築き上げた山田、木戸ラインが勝利します。

 山田は士官学校、軍旗、軍服、軍事病院、兵器工場、弾薬庫、
軍事教練、教導団など軍隊の基礎を築いています。
大佐、軍曹等の名称も山田が名ずけ親です。
 
 山田は直属軍隊、国民皆兵制度を実施しょうとした事から
薩・長・土の旧藩士を中心にしょうとした大久保、西郷ラインと激しく衝突します。
大久保、西郷、桐野利秋らは戊辰戦争で余った兵隊の処理に苦慮していたのです。

 ここで登場するのが山県有朋です。山県は山田と同じ松下村塾に学び6歳年上、
生活の苦労は山田の百倍はしているでしょう。
山県はここで八方美人的な要領の良さを見せます。
山田の国民皆兵制度を採用する代わりに野に下っていた西郷担ぎ出しに成功するのです。
山県の徴兵制度は山田の国民皆兵制度が下敷きになつています。

 山田、木戸、大久保、西郷の信頼を得た山県は一気に軍隊のトップへと踊りでるのです。


   エメラルド評・・・ 一度言い出したら梃子でも引かない山田市之丞も凄いが、
   デブの西郷とチッコイ山田の両人の顔を立てた痩せの山縣狂介もまた凄い。

Posted by 名無しさん at 2016年12月21日 16:52
軍隊の浦島太郎山田顯義と抜け目のない山縣有朋 
 山田顕義もヌカッタョねえ。山田より6歳年上、兄貴格の山縣有朋を信用しちゃった。
松下村塾では山田が中学生、山縣は大学生の年齢でした。

 大村益次郎の国民皆兵制度に山縣が賛意を示したもんだから山田クン^舞い上がっちゃった^。
後を山縣先輩に任せて明治4年山田は岩倉使節団の一員として洋行。^ルンルン気分^で楽しく遊んでいるうちに
軍部は西郷兄弟、山縣有朋に完全に乗っ取られて陸軍に山田顕義のいる場所はなくなっていました。
大阪兵学寮は山田の居ない隙に東京に移され陸軍はフランス式からドイツ式に変えられていました。

 大村益次郎師匠が期待した弟子の山田顕義は軍隊の浦島太郎でしたとさ?。
山縣が薩摩と裏で繋がっているなんて市ィくん夢にも思っていなかった?。

軍隊の浦島太郎 
いくら温厚な山田顕義でも怒るョなあ。
山田将軍の居ない隙に山縣有朋が勝手に
大阪兵学寮を東京に移し、兵制をフランス式からドイツ式に変更し
山田氏の許可、相談なしに徴兵制を施行しようとしてたんだからね。
さらにさらにだョ山田を軍隊から遠ざけるべく画策してるんだからね。

でもそれをしてしまうのが山縣法王様の法王様たるトコロ  山縣にも志があったのさ。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 16:57
思い込んだら命がけ山田顯義 対 まとめ役山縣有朋
西郷隆盛、山縣有朋はフリーターからのスタート
 木戸・山田を捨て!!西郷隆盛、従道兄弟に走った山縣有朋

 最初、日本軍隊を握ったのは、大村・木戸孝允・山田顕義の長州藩ラインです。
戊辰戦争で主力として、大活躍したのは市ィです。山縣でも西郷でもありません。

 日本軍隊、最初の軍人は大輔の大村と大丞の山田の2人です。日本軍隊のスタ-トは
実にこの2人から始まるのです。この時点では西郷隆盛も山縣有朋も無職、今の
フリ-タ-です。この時期人事権を握っていたのは大村益次郎です。

 ハ-ッ、それではどうしてガタが市ィより上になったのか・・疑問だと思います。
それは簡単です。薩摩藩出身者を振り向かせ、天皇中心の国民皆兵制度、
後の徴兵令を施行しようとして、新政府が西郷隆盛の懐柔策に乗り出したからです。

 ここで山縣が登場します。ガタは実は大村.木戸・市ィと違って薩摩が嫌いでは
ないのです。鍵は隆盛の弟の従道です。ガタは従道とともに洋行した事から薩摩の協力
をえて、西郷隆盛担ぎ出しに成功します。
 
 その後、人事権を握った西郷大将は当然、山縣、従道を優遇します。山城家事件で、西郷
が山縣を庇ったのも、西郷自慢の息子!!にガタが成長したからです。

 出世は上司次第、人事権を握った方が出世するのです。能力はあまり関係ないのです。
機を見るに敏な山縣は木戸・山田のいない隙に西郷に走ったのです。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 17:02
大久保利通も匙を投げた 山田顯義の頑固さ
大久保利通も困ったよねえ^。
山田顕義が明治初期、軍隊の主導権を握って
軍旗、軍服の制定。大阪兵学寮の建設、軍事教練など次々に既成事実を
積み重ねるものだから大久保と同郷の西郷隆盛は終に頭にきて
どぐれて郷里の鹿児島に引っ込んだ。
西郷さんや大久保さんの頭には旧鹿児島藩兵をなんとか新政府内で採りたてたいと云う
気持ちがあったんだな。
一方山田顕義の脳裏には国民の軍隊と云う気持ちがあったんだな。

大村益次郎亡き後、主導権を握った大久保利通は山田大丞を抑えるために
黒田清隆、河村純義、板垣退助らを次々に大丞に抜擢するも
山田大丞に全く歯が立たず。前原一誠も能力なし。
困り果てた大久保利通の頭に浮かんだのが洋行帰りの山縣有朋でしたとさ。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 17:05
靖国神社
大村益次郎の銅像。

 私は、現在、大村先生の名前が、残ったのは、司馬遼太郎先生が、大村を
取り上げた事だと思うけど、もう一つは、山田顕義が、師匠想いだった事も
大きいと思うな。

 靖国神社の大村益次郎の銅像も、市ィの肝いりで出来たんだな。

 大村の、紙切れ一枚の構想にすぎなかった日本軍隊も、師匠の後を継いだ山田顕義が、
鼻紙に使わず
天皇国家の直属軍隊を、薩摩芋の妨害を撥ね退け、実現させたから、
大村の名前が残ったんだな。。

 市ィが、あの時、鼻をかんでいたら、日本軍隊は、誕生しなかった。。。

〇靖国神社の大村益次郎の銅像は明治天皇の大好きな山田顯義によって
 造られました。天皇陛下の嫌いな山縣有朋が
 造ったんじゃぁありません。
 天皇陛下も満開の桜を見て大変嬉しいんじゃぁないのかな。
 山田市は征台論に反発辞表提出、征韓論にも反対しています。
 山田顯義は号を韓峯山人と言い韓国大好き人間でした。
 人に対して懇切丁寧。清風明月是我心が山田の心意気です。

 弁護人制度の導入や拷問制度の廃止、軍人の恩給制度などにも
 山田顯義は尽力しました。山田はいい人だぞ。


Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 17:22
明治天皇陛下の臨幸 音羽の山田顯義伯爵別邸
 
明治23年6月26日午後3時、帝室制度取調べ局より
音羽の山田伯爵別邸に至る。
上、同邸へ臨幸あるを以て招待を受けて参会す。(フロックコート着用)。
各大臣、枢密顧問官及び勅任官数名、秘書官他宮内官等を合して
約百五十、六十名参会。

 能楽、如燕の公演及び西某の琵琶等の余興あり。
晩餐を上(たてまつ)り各大臣及び宮内勅任官のみ陪食、
他は皆別席に於て立食の饗あり。

  天機麗しく夜八時過、車駕還幸、
一同続いて退散。
是山田顕義伯爵
一代隆盛の時なり。

※現在、音羽の山田別邸はありません。
 西洋館です。施工は清水建設。
関東大地震で修復不可能なまでに損傷しました。

 作家の藤枝静雄さんによりますと
大層ガッチリとした作りで感心したことがあるそうです。
現在、文京区の音羽の別荘跡地には講談社が威容を誇っています。
明治天皇行幸を記念して護国神社が祀られています。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 21:12
 明治二十三年十二月、官を辞す

 少壮にして 国を出て 路 縦横
 力を尽くし 鞠躬するは 一誠に在り
 立憲 民を治むは 容易ならず
 任を追い 成務は 分明を要す
 褒貶 素より甘んず 当時の議
 得失 永く期す 後世の評
 回顧す 三〇年 経歴の事
 病床に 涙を揮って 禁城を拝す

注 
  路縦横  幾多の苦難を歩んできたことをいう。
  分明   是非の分別。
  尽力鞠躬 心身を労して国事に尽力すること
  後世評  後世の評価 時に山田顕義四七歳。
   禁城   天皇陛下のお住まいになる皇居

...こうして、山田の民法・商法の継受は、伝統的醇風美俗論と現実的・慣行論との
両論から非難されることになりました。
山田は孤軍奮闘いたしますが、ついにだめで結局敗れる。
…明治二十三年、ちょうど日本法律学校(日大)を創りました翌年、・・・かれは感慨を籠めて
次のような
詩をつくりました.

注釈を加えながら一句ずつ申し上げますと、まず
「少壮国を出でて路縦横」、若いときに故郷を出てさまざまな
任務をやってきた。
軍人もやり、工部・内務・司法卿や司法大臣もやる。宮城が火災にあった折は、
その新築にも当たった。

・・・そしてその後が「尽力 鞠躬は 一誠に在り」です。
さまざまな任務を慎み、力を尽くしてやってきたが、帰するところは
すべてまごころでやったというに尽きる。
…山田のこの一句は、おそらく諸葛亮の「後出師表」に基づいています。

・・・それから少しとばしまして「褒貶 素より甘んず 当時の議
 得失 永く期す 後世の評」です。

現在褒められ、けなされている事は
それで宜しい。
よいかわるいかは後世の正論がきめてくれるであろう。
/ここには山田の法典施行に対する所信が溢れているでしょう。

  シリーズ 学祖・山田顕義研究 第四集174頁 「高梨公之講演」


Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月21日 21:36
明治天皇陛下の臨幸 音羽の山田顯義伯爵別邸

日本法律学校(日大)が認可されたのは大日本帝国憲法の発布された明治22年の10月4日。
開校式は翌年の明治23年の9月21日です。
東京都麹町区飯田町五丁目の皇典講究所内に
総理大臣山県有朋、司法大臣山田顯義、帝大総長加藤弘之、
政府顧問ボアソナードその他、
内外の貴賓百数十名の列席を得て盛大に行われています。

開校の約3カ月前にはすでに講義は行われていて、6月26日、
明治天皇が小石川音羽の山田邸に行幸されたさい、

「其の御道筋は宮城通用門を出て右に竹橋を渡り、右に雉子橋を出て、
飯田町通り日本法律学校の前を御通行ありしとき、
同校生徒五六十名は門前に整列して拝礼をなし」たという
東京日日新聞の記事があります。

明治天皇は音羽の山田別邸に向かう前に山田顯義の開校した
日本法律学校の前をわざわざ遠回りして通っています。日大の新入生に
大歓迎されたと思います。

山田顯義は國學院大學と日大の創立で知られ
伊藤博文、西郷隆盛と共に
明治天皇に大変愛された将軍です。

      なんでも鑑定団 愛のエメラルド

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月22日 18:36
宮さん宮さん(トコトンヤレ節)
   作詞 品川弥二郎  作曲 大村益次郎

一  宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
   あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

二  一天万乗の帝王(みかど)に 手向かいする奴を トコトンヤレ トンヤレナ
   ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレ トンヤレナ

三  伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦いは トコトンヤレ トンヤレナ
   薩土長肥の 薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな トコトンヤレ トンヤレナ

四  音に聞こえし関東武士(さむらい) どっちへ逃げたと問うたれば トコトンヤレ トンヤレナ
   城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ トンヤレナ

五  国を追うのも人を殺すも 誰も本意じゃないけれど トコトンヤレ トンヤレナ
   薩長士肥の 薩長土肥の 先手に手向いする故に トコトンヤレ トンヤレナ

六  雨の降るよな 雨の降るよな 鉄砲の玉の来る中に トコトンヤレ トンヤレナ
   命惜しまず魁するのも皆御主の為故じゃ トコトンヤレ トンヤレナ

Posted by 名無しさん at 2016年12月22日 19:48
宮さん宮さん(トコトンヤレ節)
   作詞 品川弥二郎  作曲 大村益次郎

一  宮さん宮さん お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
   あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

二  一天万乗の帝王(みかど)に 手向かいする奴を トコトンヤレ トンヤレナ
   ねらい外さず ねらい外さず どんどん撃ち出す薩長土 トコトンヤレ トンヤレナ

三  伏見 鳥羽 淀 橋本 葛葉の戦いは トコトンヤレ トンヤレナ
   薩土長肥の 薩土長肥の 合うたる手際じゃないかいな トコトンヤレ トンヤレナ

四  音に聞こえし関東武士(さむらい) どっちへ逃げたと問うたれば トコトンヤレ トンヤレナ
   城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな トコトンヤレ トンヤレナ

五  国を追うのも人を殺すも 誰も本意じゃないけれど トコトンヤレ トンヤレナ
   薩長士肥の 薩長土肥の 先手に手向いする故に トコトンヤレ トンヤレナ

六  雨の降るよな 雨の降るよな 鉄砲の玉の来る中に トコトンヤレ トンヤレナ
   命惜しまず魁するのも皆御主の為故じゃ トコトンヤレ トンヤレナ
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月22日 19:58
「丁卯正月五夜、慨然有作」 山田市之允(顯義)

  
   燈照史篇幾敗成
   一邪一正自分明
   中宵有報天皇崩
   六十六州嗚噫聲


慶応三年(1867年)正月五日の夜、孝明天皇の崩御が
私にもたらされた。灯に照らされている
歴史書には幾多の栄枯盛衰が綴られています。
夜半に天皇陛下の崩御の知らせが届きました。
六十六州神国全土が、追悼の意を示しています。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月22日 20:02
「駿州途上」  時祭徳川氏依移封   山田市之允(顯義)


   山水索然秋満身
   駿州城外断腸頻
   可憐店店売茶女
   元是錦帳以内人


語釈
  「駿州途上」駿州は駿河。静岡県中部。
  「移封」くにがえ。ここでは徳川氏が版籍奉還して静岡に移住した事を云う。
  「索然」ものがなしいさま。
  「綿帳」錦の帳。お城の御殿」

馬肥える秋。
ここ駿河の郊外では何度も、大変悲しい思いをしました。
立ち並ぶお店でお茶を売っていた女衆は
元もとは江戸城内の御殿の中で
徳川家に仕えて
錦の帳の中にいた人たちなのです。

〇山田顯義は敗者に対しても優しい。
このやさしさが明治天皇にも愛され
師匠の大村益次郎の銅像建立に
繋がったと思います。

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月22日 20:09
みなさんは小唄の「かざをりえぼし」はご存知ですか?
小唄 「風折烏帽子」

岐阜の長良川鵜飼を題材に明治の元勲山田顕義伯爵
(法典整備や日本大学・国学院大学の創設者として活躍)が
明治天皇に長良川の鮎を献上した際の感激を詞にしたもので、
夏になると岐阜では座敷舞として唄い続けられた風雅な曲なのです。

幕末、山田市之允は小舟の中で明治天皇の叔父さんの中山忠光卿から
小っちゃい瓢箪をプレゼントされますが、岐阜の長良川の
鵜飼いでは明治天皇に デッカイ?鮎を献上しています。


小唄 「風折烏帽子」

風折烏帽子 腰蓑つけて 清き流れの長良川
流れ尽きせぬ幾千代かけて 君に捧げん鮎の魚
船端叩いて ほーほーほっ
 
【解説】  清元お葉作曲 
明治二十三年九月、司法大臣山田顕義が、岐阜県長良川の鵜飼に遊んだ時に作詞したものである。
「君に捧げん鮎の魚」とあるのは、延喜十一年(九一一)美濃の国司藤原利仁が勅を承って
干鮎を醍醐天皇に献じて以来
ずっとこれが習いとなり毎年鮎を宮中に献じていることを唄ったもの。

「流れ尽きせぬ幾千代かけて」は、長良川の水と、君に捧げんとの両方にかけた言葉である。
「ほーほーほっ」は鵜をはげますために、船側を叩いて声をかけるさまを唄ったものである。
  
風折烏帽子=烏帽子の一種。立烏帽子の先を折伏せた形のもの。
  腰蓑=腰にまとう短い蓑
(小唄鑑賞 木村菊太郎著より)
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月24日 09:14
米欧亜回覧ニュース 第76号・部会報告 (2014年10月15日)
◇小ナポレオンといわれた男  山田顕義(講師:泉三郎氏)  6月23日開催。

 岩倉使節団には未だ知られざる人物が少なからずいるが、山田顕義もその一人である。
幕末の戦争で武勲を挙げ、用兵の奇才といわれ、大村益次郎を継承する人物と嘱望されたが、
山縣有朋が軍政の主導権を握り、傍流を歩むことになる。
当時は28才であったが、陸軍少将の地位にあり兵部省派遣の理事官として
岩倉使節団に参加することになる。
 
 幕末以来陸軍はフランスの指導を受けていたので、山田もパリを拠点にして学び、時に欧州各地を巡覧しながら
軍事視察に精励した。使節団がパリを訪れたときは、木戸孝允との交流が殊の外密で、
思想的にも心情的にも共鳴するところが多かったようだ。
そのため木戸の旅行先にもしばしば出向いて交歓している。

 山田は軍事天才として民法典の編纂者ナポレオン1世を崇拝し、
これからは「武の時代ではなく法の時代だ」と、
法に関心の重点を移していく。小柄ながら才気縦横で小ナポレオンとも渾名された。

帰国後、1万5000字からなる建軍策を提出したが、そこには次のような文章がある。
「兵何を以て至要なるや。兵は凶器なり。而して能く巨万の金額を費やし、人民を労し、少壮の事業を妨げ、その学問を礙し、その性を障害し、その才を束縛し、その刑罰を厳酷にし、
或いはまた醜業に慣習し、密陰を盛んにし、梅毒を繁殖す。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月25日 19:21
山田顯義の建軍策「兵は凶器なり」
帰国後、1万5000字からなる建軍策を提出したが、そこには次のような文章がある。

「兵何を以て至要なるや。兵は凶器なり。
而して能く巨万の金額を費やし、人民を労し、少壮の事業を妨げ、
その学問を礙し、その性を障害し、その才を束縛し、その刑罰を厳酷にし、或いはまた醜業に慣習し、密陰を盛んにし、
梅毒を繁殖す。しかるにいわんや大砲銃諸器も上は頂上より下は跛底まで、人体軍用諸物、ことごとく皆外国に仰ぐに於いておや
―中略―今日、文明の世に於いて無用なるものは兵か。しからず兵は抵抗の器なり。人抵抗の気あれば武勇なかるべからず。
また軍事なかるべからず。
人生欠くべからざるものは、文武なり。国また然り」
 
この建言書は明治国家の形成には取り入れられず、「幻の建白書」といもいわれている。
山田は「兵を敵対抵抗の器なり」とし、必要悪としての軍隊の本質を衝き、徴兵制についても
教育を先にする漸進論を掲げ、山縣の進める徴兵制に異を唱えた。
 
その結果、山田は司法畑に転じ、伊藤の組閣した内閣では初代司法大臣に就任、
その後四代の総理大臣の下で八年にわたり大臣の職にあり民法、商法の整備に挺身した。
また、一方で教育に力を尽くし、日本法律学校(日本大学の前身)や國學院大學の創立にも関与した。
教育重視の面でも木戸の衣鉢を継いだといえる。その思想の根底には、自然の摂理を尊ぶ
「天地生成の意」の思想があった。視察先の生野銀山で卒倒し急死、49才だった。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月25日 19:36
大津事件とロシア
一番のジジは児島惟謙、一番のワカは明治天皇
大津事件の主役たちの年齢をみると面白い事が分かりました。
一番の高年齢は児島惟謙で54歳。

山縣有朋が53歳。伊藤博文が50歳。
山田顕義と陸奥宗光が47歳。
西郷従道が46歳。
明治天皇は僅か39歳です。

老朽化?した司法官が国難を背に、右往左往する若い政治家たちを前に
年寄りの冷や水(智慧?)、頑固一徹の姿勢を見せたのが
大津事件と言えそうです。ロシアの対応いかんによっては
北方四島どころか北海道の半分を取られてもおかしくない国際問題でした。

大津事件と人間山田
山田顕義司法大臣も本当に困っちゃったよねえ。山田は司法大臣として
早くから裁判所構成法の制定にも関わり
同法草案の第一条に
「裁判所は独立にして法律以外の権力に服従すること無し」
「若し構成法に於て
此の一条を欠くときは憲法の精神を全うし難し」と述べさらに
大審院長の身分を親任官にしようとするなど裁判官の地位向上に大変に熱心です。

山田は内閣の一員という立場上、内閣と裁判官の間で苦慮しています。
児島惟謙大審院長もこの点はよく分かっていたとみえ、
山田法相を評して
「正義を知りて、然かも之に背馳せる方向に走らざるを得ざるに至りては、
人間、閣臣となる、亦難いかな。」と同情的です。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月29日 17:57
明治24年、巡査津田三蔵がロシア皇太子を傷つけた、いわゆる大津事件で
一番活躍したのは、大村益次郎の門下生山田顕義です。
山田司法大臣は、内閣員の一人として国家の立場で、又、民法、商法などを編纂した
司法の立場で、又、軍人としての立場で、大津事件の主役として登場します。

 老害の大審院長児島惟謙は、裁判官に介入し、司法官として絶対に許されない行為に
出たのに対し、山田司法大臣は裁判官に任せる他になかるべしと、裁判官の自主性を尊重
しています。
山田が法律と国家の狭間で、苦慮しているのは事実です。国家の徳義上の責任もあります。
警備の不手際は、安全を保障した、日本政府の大失態でした。

 又、軍人として、万が一戦争になった場合の、近代化の遅れている貧弱な海軍力を心配
しています。約10年前、薩摩主導の海軍は、木造の軍艦造りを計画、大量の木材を横須賀に集めて
います。近代化の遅れを長州派の山田顕義、伊藤博文、山縣有朋がカンカンに怒って、
川村純義海軍卿の更迭を画策しています。
結局この件は、Kが山田に土下座!!することで決着しました。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月29日 18:05
「国滅びて何の法律ぞ」

明治天皇を初め、山田顯義ら政府の内閣員は
ロシア側が意外に柔軟な対応に
出たのを見て一息ついたのですが、
この時のロシアの出方次第では北海道の半分を要求されても
拒めない状況でした。

青木外務大臣がロシア皇太子の安全を保障した以上、
非は日本側にあります。
日本政府は謝罪する他に
手の打ちようがありませんでした。

軍人も困ったよねぇ。もしも戦火が切られた場合、
山縣有朋も山田顯義、西郷従道もこの時点では陸軍も海軍も
大ロシアには手も足も出ない達磨さんでした。

ロシア皇太子もお気の毒でした。後にロシア革命で命を失くすのですから
あまりにお気の毒です。でも親日家のロシア皇太子のお蔭で
日本は救われました。

山田顯義の一言は強烈です。
「国滅びて何の法律ぞ」。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月29日 18:25
「御楯武士数え歌」   作詞久坂玄瑞

一つとや、卑き身なれど武士は、皇御軍の楯じゃな、これ御楯じゃな。
二つとや、富士の御山は崩るとも、心岩金砕けやせぬ、これ、砕けやせぬ。
三つとや、御馬の口を取直し、錦の御旗ひらめかせ、これ、ひらめかせ。
四つとや、世のよし悪しはともかくも、誠の道を踏むがよい、踏むがよい。
五つとや、生くも死ぬるも大君の、勅のままに随はん、なに、そむくべき。
六つとや、無理なことではないかいな、生きて死ぬるを嫌ふとは、これ、嫌ふとは。
七つとや、なんでも死ぬる程なれば、たぶれ奴ばら打倒せ、これ、打倒せ。
八つとや、八咫の烏も皇の、御軍の先をするじゃもの、なに、をとるべき。
九つとや、今夜も今も知れぬ身ぞ、早く功をたてよかし、これ、おくれるな。
十とや、遠つ神代の國ぶりに、取つて返せよ御楯武士、これ、御楯武士。

〇御楯武士[編集]
文久2年(1862年)3月 久坂玄瑞が尊王の思いを綴った数え歌
節は守屋浩のヒット曲「大学数え歌」のメロディーかなぁ

久坂玄瑞 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E5%9D%82%E7%8E%84%E7%91%9E

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月31日 17:25
山田市15歳の時の作品。久坂は花も恥じらう19歳。

   久坂玄瑞(実甫)が東武(江戸)に行くを送る

 君今鞭打って去る。去きて何れの時にか帰らん。
 東海妖氛暗く 芙蓉(富士山)独り巍々たり。
 長剣腰下に鳴り、易水壮士の志。
 決然たり丈夫の別れ、また千古の思いを為す。
 行程(道中)君自愛せよ。浙々として寒風吹く


〇禁門の変
 久坂玄瑞も入江九一も早死にだよなぁ。山田顯義は漸くの事で
 蛤御門から逃げ出し、西本願寺で品川弥二郎らと坊主頭になり
 新選組らの追撃を辛くも逃れ
 托鉢をしながら長州に逃げ帰ったそうです。

 そのわずか数年後、長州軍を率い三田尻から
 東征先発部隊の諸隊総指揮官として、7隻の軍艦を率いて
 海路上京するなんて山田市之允(顯義)でも夢にも思っていなかったと
 思うけどなぁ

〇鳥羽伏見の戦い前夜
 長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・
 小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で
 奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、
 第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。

 慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。
 そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、
 7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。
 戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を
 山田市之允に授けた。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2016年12月31日 18:13
兵は凶器なり  1
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義が欧米使節団に随行すると決定した時、兵部大輔に
就任したのは山県有朋である。これ以後山県は陸軍のすべてを掌握した。
廃藩置県に伴い各藩独自の軍備は解除され、軍備一切は
中央政府が統帥することになった。

中央政府は、暫定措置として鹿児島、山口、高知の三藩兵で皇居守備隊を組織し、
兵部省管轄とした。これは過渡的な措置であり、いずれはよりふさわしい
制度を実施する方針であった。新しい兵制の実行に当たって一番大きな問題は、
兵士をどう集めるかということであった。
一つは従来の各藩藩士を登用して統一軍隊を作るか、あるいは国民一般から
壮丁を募集する志願兵として訓練するか、または国民皆兵つまり
国民の義務としての徴兵制を取るかの三点であった。

大村益次郎亡き後、兵制の整備に取り組んできたのは、山県有朋、山田顯義、それに
西郷隆盛の弟西郷従道であったが、長州藩で諸隊の結成とその活躍に自ら参加してきた
山田顯義は、当初はむしろ徴兵制度を積極的に進めようという意向であった。

山田顯義らが欧米に渡航した後、その留守中に山県有朋は国民皆兵の
方針を強力に推し進めた。
したがって、山田顯義が海外調査研究を終わって帰国した時は、山県有朋によって
兵制改革は着々と進み、大阪に置かれた軍事施設はほとんどが東京に移され、
徴兵制度も明治5年(1872)11月9日に公布され、実施直前であった。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月2日 18:06
兵は凶器なり  2
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義が海外調査研究を終わって帰国した時は、山県有朋によって
兵制改革は着々と進み、大阪に置かれた軍事施設はほとんどが東京に移され、
徴兵制度も明治5年(1872)11月9日に公布され、実施直前であった。

帰朝した山田顯義は、直ちに山県初め政府要人に徴兵実施の延期を進言した。
松下村塾以来の同志であり、一緒に兵制改革に携わってきた顯義の
反対意見に山県有朋は驚いた。
山県有朋の方針は、いわゆる「富国強兵」思想であった。アジアの情勢を厳しく見つめ、
特にロシアの南下政策などを考えれば、日本はそれに対抗し得る戦力を備えなければ
ならない。したがって、すべての政策に優先して軍備を整える必要があり、そのため
国民皆兵に基づく徴兵制度を急がなければならない、というものであった。

これに対して山田顯義の意見は、
「軍備は皇室をお守りし、国土を保全し、人民の安全を図る一道具に過ぎない。
皇室の守護、国土の保全、人民の安全確保は、国の法律の整備、教育の拡充、その他すべての
政策によってなされるものであって、軍備のみに頼るべきではない」と
いうものであった。
その軍備にしても、徴兵制が先にあるのではなく、「下士官堅牢ならざれば千万の兵も
寸用をなす能わず(しっかりした下士官の養成を先行しなければ、
兵をいくら数多く集めても十分な役には立たない)」と言う。

国民の普通教育の充実を先にして、その過程で多少の兵式訓練を
施すならば、徴兵の営内訓練は短期間に行うことができる、という
意見もあった。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月2日 19:08
兵は凶器なり  3
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義の徴兵実施延期論は、「兵何を以て
国家に至要なるや。兵は凶器なり、 ・・・・」で
始まっている。中国の古典「呂氏春秋」には「およそ兵は天下の凶器なり」、
そして「史記」にも「怒りは逆得なり、兵は凶器なり、争いは末節なり」と
ある。「老子」にも「兵は不詳の器なり」という似た表現がある。

「兵」とは、武器あるいは武器を取る人間を指すものだが、このことから
軍事や戦争を指すようになった。二千年以上も前の春秋時代から
「兵は凶器」とか「兵は不詳の器」という考え方が常識的であった。
したがって、兵法書「孫子」にある「百戦百勝は善の善なるものにあらず。
戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」という名文句も
生まれたのであろう。これらはすべて、「戦争は本来避けるべきものなのだ」と
いう古人の英知の表れである。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月2日 21:57
兵は凶器なり  4
山田顯義 対 山県有朋

山田顯義は自分の建白書の冒頭に、あえて中国古典に見られるこの
文句を置いた。ここに顯義のヨーロッパでの研究の成果と共に、
日本の行く末に寄せる思いがうかがわれる。

山県有朋は足軽以下の身分の出身で幼い時から苦労して育った。
吉田松陰の門下生としての期間は短く、
松陰の精神を自分の血肉としていたとは言えない。
したがって、吉田松陰の嫌う功名心が人一倍強く、
出世主義者であったことは、
すでにいろいろなところで語られている。

山県有朋は異常な執念をもって、維新の兵制を統一するために全身の精力を
傾けていた。大村益次郎が兵制の大枠を構想し、山田顯義がその基礎を構築した。
それを継承して発展させたものではあったが、山県有朋は自分なりの方針も
存分に盛り込んできたのである。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月3日 22:09
兵は凶器なり  5
山田顯義 対 山県有朋


山田顯義の意見に木戸孝允が支持を表明した。山県有朋は木戸や顯義の
説得に奔走した。山県有朋は生涯を軍事軍政に捧げる強い意志を持っていた。
山田顯義にしても、軍部が紛糾することは絶対に避けなければならないと思った。
そして何よりも山田顯義は、それほど軍事軍政に対する執着はなく、
むしろ日本の近代化を促進する課題として、法制の整備に対する熱意と
教育制度の拡充に寄せる関心が強かったのである。

つまり、この時、山田顯義が一番言いたかったのは、国家の存在を主張する
軍備も大切だが、今の日本には、その前に法律法制の整備、対等外交、
国民教育など、緊急にやらなければならない課題がたくさん
あるということだった。

11月24日、山田顯義は特命全権大使(当時の名称は公使)として、清国北京在勤を
命ぜられ、事実上兵部省を遠ざけられる。この北京派遣に山田顯義は反発し、
「帰朝後、いまだ欧米視察による軍事問題の報告書をまとめ得ぬ時期の
辞令に当惑千万なり」と、伊藤博文に書簡で伝えている。

この時期、山田顯義は健康状態も十分ではなかった。しかし、翌年
佐賀の乱が起こり、この乱の平定のため九州出張を命ぜられ、
特命全権大使を免じられた。

   「日本大学学祖 山田顕義」夏井満 パナ出版企画
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月3日 23:04
隠岐西郷湾の海戦 
明治元年、山陰松江藩は隠岐島の勤皇派を弾圧。弾圧された勤皇派は直ちに毛利藩に急報。
藩主毛利敬親は丁卵艦艦長山田市之允(顕義)を喚び、
北陸への軍旅の途上、一旦艦を隠岐へと回航させ、この島の
紛争処理を命じた。

松江藩は勤皇派を徹底弾圧するために、軍艦第二八雲丸に軍兵を満載
空砲を鳴らし、5月14日隠岐島西郷港に投錨し島民を威嚇上陸した。
強硬に島民を威嚇し勤皇派を弾圧する松江藩の前に
、驚愕の出来事が起こります。
初めは米粒の大きさにしか見えなかった艦長山田市之允の率いる長州藩軍艦
丁卯丸と薩摩藩の軍艦乾行丸(艦長本田弥左衛門)が14日の午後から
翌15日にかけ、征旅の途上に隠岐西郷湾に立ち寄って来たのです。

松江藩が山陰沖に覇を唱えた大きな理由は
西洋式蒸気船二八雲丸の行動力にあったのだが
ここに薩長両藩の主力艦が現れたことで
形勢は一気に逆転した。

薩長の両巨艦、丁卯丸と乾行丸が
軍艦第二八雲丸を左右両面に横付け、
戦闘力を奪ったうえで投錨してきた。
泣く泣く松江藩兵は撤退を余儀なくされたのでした。
市ィーの勝ちじゃった。。

「山陰沖の幕末維新動乱」大西俊輝著
近代文芸社
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月5日 22:45
大村益次郎の靖国神社銅像建立の発起人でもあり
大村兵部大輔とともに日本軍隊をスタートさせた
山田顕義兵部大丞の映画化が実現しそうです。

長州の青年隊長山田顯義(山田市之允)の映画化が漸く
実現しそうです。山田伯爵は高杉晋作が後継者に選んだ
戦の天才。鳥羽伏見、北越、五稜郭の戊辰の役。佐賀の乱、
西南戦争でも勝利した日本の小さなナポレオンです。

前から映画化のお話がありましたが資金難から燻っていました。
靖国神社の大村益次郎銅像は門下生の山田顯義が建立したものです。
日本の軍隊は兵部大輔の大村と兵部大丞の2人からスタートします。

【税金】安倍政権、「明治維新」を題材とした
映画やテレビ番組に支援検討 [無断転載禁止]©2ch.net
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1483874765/l50

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月9日 16:41
映画製作について
http://www.akiyoshi-yamada.net/movie/

山田顕義の生涯を題材にした劇場用映画は、いままでありませんでした。
山田顕義は、かの「坂の上の雲」などにも登場する明治期の英傑でありましたし、
小説では、彼を主人公にしたベストセラーがいくつかありましたが、
綺羅星のごとく存在する明治の英雄たちの中に隠れていた存在でした。

しかしながら、彼の活躍を紐解いていくと日本という国の時代が変わる
重要な出来事の節目節目に必ず存在していて、実に多くのことをやり遂げている。
大変エキサイティングな生涯を送っています。

彼こそ日本の近代史そのものなのです。これを映画にしない手はない。なぜいままで映画人は、
彼のような秀逸な素材を見落としてきたのか。
こういう経緯から、日本全国の多くの人に見てもらうために、
多くの人達が集まり映画製作が進められています。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月9日 16:44
木造軍艦
日清、日露の海戦の陰の立役者、山田顕義

 日露戦争の時、日本海海戦で大活躍した東郷平八郎は有名。でも誰も知らないと
思いますが、立役者は他にもいるのです。山田顕義、伊藤博文、山県有朋等です。

 明治15年前後、薩摩藩出身の川村純義海軍卿を更迭し、山田顕義海軍卿を確立
しようとした事がありました。つまりさつま芋は頭が悪いからダメだという事です。
最後は、山田さんに川村さんが詫びを入れる形で、川村さんの続投が決まりました。

 一言で言えば、薩藩のリ−ドする海軍は、近代化が遅れたうえに更に計画性がない
ドンブリ勘定でお話にならないという事。長州派の堪忍袋の緒が切れたと言う事です

 当時、川村海軍卿はない頭を絞って海軍の充実を計り、大井川奥の木材を
大量に購入して、木造の軍艦造りに邁進しています。
静岡県焼津市の御用商人、増田与之助に命じて大量の木材を横須賀の海軍基地に
運んでいます。( 与之助の奥さんの実家は伊豆湯ヶ島町の旅館落合楼です!。)

 これに反発したのが、山田顕義、伊藤博文、山県有朋です。
なにしろ伊藤と山田の両人は、知恵のかたまりと言われた頭脳の持ち主です。
長州派の怒りを買い、木材の購入は中止され、御用商人は40万円もの
多額の負債を出して倒産、海軍の木造軍艦造りは失敗します。

 この後、陸軍に続き、海軍の近代化は、長州派の指導で急ピッチで進められ
日清、日露の海戦の大勝利に結びつくのです。 でも木造軍艦でロシヤ艦隊と
戦おうとしたなんて・。今となつては嘘のような本当の話です。

〇山田市の父上は長州藩の海軍頭です。造船の技師長のような役割です。
 西洋軍艦の設計もしています。

Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月10日 08:40
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。


長州藩の奇兵隊その他の諸隊は、広く足軽、農漁村、町民からの
志願者を集めて編成した義勇隊で、無学、粗暴の者が多かった。
山田顯義が指揮した御楯隊も例外ではなかった。そこで山田顯義は、隊員に
兵式訓練とともに論語、孟子、詩経などの講習に加えて、恩師吉田松陰の
「訓戒士規七則」や勤王事績を教えた。

維新直後、大村益次郎が大坂に兵学寮を設置して士官の養成に乗り出した時、
実戦の経験から第一線での下士官の優劣が勝敗を決することを痛感している
山田顯義は、兵学寮の中に教導隊を設けて下士官要請を始めた。
これは山縣有朋も共鳴し、教導団として発展させ、後に
陸軍教導学校とした。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月19日 20:19
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。


山田顯義はヨーロッパ視察後、「軍政建白書」という長大な意見書を
提出しているが、その中に次のような一節がある。
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす。
ここにおいて、国民中貴賤貧富の別なく、幼稚のときより
郷学において、普通学を教え、兼ねて銃器訓練を行はしむ」

つまり、国民の知識レベルの向上が基本であり、そのための普通教育の
普及が大事であることを訴えている。そして、地域地域での幼少からの
普通教育の中に銃器の取り扱い訓練を含めば、兵士の教育機関の
短縮につながる、という考えが述べられるのである。
このような準備もなく、いたずらに国民皆兵を目指す徴兵制度を
急ぐべきではないと、徴兵延期論を展開させている。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月19日 20:36
軍事教練の生みの親 山田顯義
「兵は隊伍に偏し、銃砲を取り敵前に進ましむることを以て、
本務とすべからず、人民一般の知識敵兵に超越するを以て最要とす」。


冒頭に「兵は凶器なり」とあることから見て、この意見書は、
吉田松陰の「未焚稿」の「兵を学ぶ者は、経を治めざるべからず。
なんとなれば、兵は凶器なり、逆徳なり。用ひて以て
仁義の術を済さんには、いやしくも経に通ずるものにあらずんば、
いずくんぞよく然らんや」を念頭に置いて執筆したものであろう。

つまり、ヨーロッパ視察の成果に、「兵学は術も大事だが、兵士の
道徳的完成がもっと大事だ」という恩師の教えを重ね合わせた山田顯義の
結論であった。この意見はやがて、高等小学校や中等学校での
軍事教練課目へと発展する。

「日本大学学祖 山田顕義」夏井満 パナ出版企画
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年1月19日 20:54
鳥羽商船校祖 近藤真琴翁と靖国神社大村益次郎像  S38E 全船協会長 岩田 仁  2015年9月2日


全船協本部事務所は靖国通りに面し、入居しているビル1階入り口の歩道より遠く
靖国神社の大鳥居が街路樹越しに見える。毎年8月15日の終戦記念日には
事務所前は街宣車や各種団体のデモ行進で賑やかとなり、神保町の夏の風物詩となっている。

靖国神社は天気の良い日には昼休みの運動に程よい距離にあり、私にとっては程よい散策コースで時々桜や銀杏の木陰で気分転換している。
 靖国神社を訪れるとすぐに、参道の大鳥居の後ろに明治維新の立役者の一人でもある
大村益次郎の立像が目に入る。
この像は参拝された方はご存じのように高さ5メイートルほどの台座の上に安置されている。
像の解説チラシによれは草履ばき、陣羽織袴姿で左手に双眼鏡を持って東京の一角、を睨んでいる
姿とのこと。方向は関東地方の最後の戦乱となった幕府側彰義隊討伐の上野の山
、現上野公園方面らしい。現在はビルが林立し上野の山は見通せない。

下から像を見上げると羽織袴姿で西洋の文明の利器である双眼鏡を持つ姿が
幕末の雰囲気を醸しだしている。しかし、真琴翁のポンチ絵には双眼鏡はない。
さて、鳥羽商船100年史(昭和56年11月発行)を紐解くと近藤真琴が蘭式兵学の師であり、
また兵部省での上司でもあった、大村益次郎の不慮の死を悼み靖国神社の境内に銅像を建立すべく
奔走したことが記載されている。この像を見上げるたびに若き校祖が建設趣意書を携えて
鳩居堂の旧門人たちや新政府要人に掛け合う姿に思いを馳せる。
同書より大村益次郎と真琴との関係のいくつかを拾い出し略記する。

安政4年1月(1857年)真琴27歳の年、大阪適塾の塾長を務めた村田蔵六(大村益次郎)が
麹町新道に蘭学塾「鳩居堂」を開く。真琴はすぐに入塾を願い許され当時最先端のオランダ式
兵学を学ぶ。しかし、5年後の安政9年(1862年)真琴は藩命により鳥羽へ帰藩することなり
鳩居堂での学びは5年で終止を打つことになる。一方、益次郎は翌年長州藩の政変により
鳩居堂を閉め長州に帰っている。
真琴が鳩居堂で勉学中の江戸の社会は日米修好条約調印(1859年)、咸臨丸太平洋横断航海
(1860年)、桜田門の変(1860年)など日本史に残る大事件が次々に発生し、
江戸は新生明治に向かって急変してゆくこととなる。

維新の争乱が鎮静しつつあった明治2年9月(1869年)師益次郎が京都の宿で
暴徒の凶刃に倒れ2ケ月後に落命する事件が発生する。
真琴は師を忍びその偉業を後世に残すため直ちに活動を開始。同年に建設されたばかりの
東京招魂社、後の靖国神社境内に益次郎の立像を設置するため像のポンチ絵と
設立趣意書である「故兵部大輔大村公銅像造立広告」を起草し運動を開始する。

起草文には「公ノ銅像を銅鋳シ、之ヲ靖国神社ノ境内に立テ、以テ公ノ功業、
遺徳ヲ翼々不朽ニ垂レ、永ク後人ノ儀表ト為サント欲ス」と記されている。
真琴本人は当時東京市に蔓延したコレラにり患し明治19年(1886年)9月恩師の像の完成を
見ることなく芝新銭座の自宅で逝去している。56歳であった。

立像は真琴の死の7年後、明治26年(1893年)彼のポンチ絵とほぼ同じ姿で
靖国神社参道に立ち参拝者を迎えている。しかし、像の台座の前にある
銅板の建立説明文には近藤真琴の運動の記載はない。


※へぇええ 近藤真琴さんについては初耳?です。大村益次郎のお弟子さんがいたんですね。
 近藤真琴さんの働きが門人山田市之允(顯義)に伝わり、明治26年に
 銅像が完成したと言うことですね。
 近藤真琴さんと同じく?山田顯義も父親が長州藩海軍の造船技師長を
 務めたことから稍々オランダ語が話せたようです。山田顯義の雷鳴は日本陸軍で有名ですが
 もともとは海軍畑の人です。大村益次郎さんの戦法の基本は
 オランダ式兵学だったんですね。大村益次郎の遺徳を偲ぶ門人たちの手によって
 靖国神社の銅像は今日に異彩を放っています。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年2月9日 08:40
山田市之允之忍耐
尊王攘夷と尊王開国

2b近い?大男だが知恵が頭に巡っていかない御堀耕助(太田市之進)と
150aに満たないが知恵の塊と言われた大村益次郎の門人山田市。
長州軍の東征先鋒部隊の諸隊総指揮は山田市之允。

慶応三年11月14日、藩主毛利敬親は山田市之允・片野十郎(奇兵隊参謀)の
両名に対し、上京の親書を与える。既に先立つ9月16日には長薩東上約条が結ばれ
10月14日には討幕の密勅が、長州毛利・薩摩島津家に下された。
11月17日には
薩摩藩主島津茂久が軍船に三千人の兵士を満載して
三田尻に入港。西郷吉之助、黒田了介らと出兵の細部にわたって打ち合わせ
21日、長州藩に先立って三田尻から上京の途についた。

〇鳥羽伏見の戦い前夜
 長州軍の東征先鋒部隊は、諸隊総督毛利内匠(右田毛利家)、参謀国貞直人・
 小田村素太郎(楫取素彦)、諸隊総指揮山田市之允、参謀片野十郎で
 奇兵隊一中隊、遊撃隊一中隊、膺懲隊一小隊、整式隊一中隊、鋭武隊、振武隊、
 第二奇兵隊一中隊、右田毛利家兵一中隊から編成されていた。

 慶応3年11月25日早朝、この先鋒部隊は全軍三田尻の鞠府の松原に終結する。
 そして総督より軍令を伝えられ、八咫鳥神社において戦勝祈願を行った後、
 7隻の軍艦に分乗して海路、上京の途につくことになった。
 戦勝祈願には藩主父子も木戸孝允・御堀耕助を従えて参列し、式刀を
 山田市之允に授けた。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月4日 09:08
山田市之允之忍耐
尊王攘夷と尊王開国

この頃のことと思われる、山田市(整式隊総督=御楯隊+鴻城隊)と
御堀耕助(長州藩政務員、御楯隊初代総督)に
関する興味深い逸話が残る。それは毛利家文庫に架蔵されている「御堀耕助履歴材料」に、
「名士逸話、筆のすさひ、山田市之允之忍耐」として紹介されている次のようなもんだ。
血の巡りの悪い大男が後輩の少年に嫌がらせをした次のようなもんだ。

一日、御堀耕助山口より其陣(筆者注。三田尻)に来る(原注・豪商五十君其の宅)、
参謀片野十郎等数名座に在り。
市之允、耕助に向けて曰く、
「銃砲弾薬の用意奈何」
耕助曰く、
「うちは知らん」
又問、
「金穀、小荷駄は奈何」
答ふ、
「うちは知らん、何は奈何」
「知らん」
「蚊は奈何」
「知らん」
市之允曰く、
「君は廟堂の人に非ずや、知らざる筈なし」
耕助曰く、
「それでも知らん」


Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月4日 11:42
山田市之允之忍耐
尊王攘夷と尊王開国

市之允(山田)止む得ず談を止む、須臾にして耕助(御堀)辞し去らんとす、曰く、
「山田、先刻問はれた事は皆、大村(益次郎)に授けて置いたから
彼より聞カレー」
ト。

市之允、衆人の中に於いて辱しめられ、切歯して熱涙を膝に滴す。
然れ共、大任(長州藩東征先鋒部隊諸隊総指揮官)が受けたる身なれば、忍して
一言を発せず。
蓋し耕助(御堀)、市之允と軍政上議論常に合わず、是を以て然せんものか

(原注・山田伯、維新の後大いに忍耐あり、以て後の幸福を得たり)
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月4日 12:07
山田市之允之忍耐
尊王攘夷と尊王開国

これを見ると、この頃、御堀と山田の間に、確執が生じていたことが分かる。
その理由を、逸話の紹介者は次の様に解釈する。
 
 又云ふ、御堀君と山田伯の議合わざる原因を推測するに、
 伯は夙に軍は西洋の規則の法に由らざるべからざるを悟り、
 大村益次郎先生に就いて之を研究す。
 又、君(御堀耕助)曰く、乃公(おれ)は已に数度実戦の験有、
 大村が机上論は取るに足らず。

 維新の後、伯、山県(有朋)公と軋轢ありと聞く、蓋し又同上の事ならん、
 この説中(あた)ラズと雖(いえど)も決して遠からざるなり。


御堀耕助は熱烈な攘夷論者だった。だから山田が大村益次郎のもとに通い、
西洋兵学を修めていることが、気に入らなくて仕方なかったようだ。
攘夷というイデオロギーに縛られる者と、新知識を合理的に受け入れることが
出来る者との決別である。それは、時代の過渡期を象徴していると
言えなくもない。

シリーズ 学祖・山田顕義研究 第7集136頁 「御楯隊始末記 後」一坂太郎
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月4日 12:41
「勤皇の大義」 1

慶応三年十月二十六日、薩長同盟を既に結んでいた長州藩は出兵を完了。
二十三歳の山田顕義はお世話になった大先輩の桂小五郎に向けて
「発するに臨み、再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや」
と悲痛な覚悟。
十月、長州軍は三田尻に集合、出陣式が行われ毛利内匠が軍令を読み上げ
山田顕義に軍を指揮する武刀が渡され、軍は船に乗り込んだ。


諸隊総指揮の任命を受けた山田市之允が、三田尻(港)を発足せんとするに際し、
山口の藩庁に桂小五郎(木戸孝允 )を訪ねたが、他に出張して不在、一書をしたためて
挨拶とした。市之允は使命の重要さを認識したのであろう。

「発するに臨み、再回再開期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。」と
筆紙の中に無量の感慨を述べている。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月7日 08:43
「勤皇の大義」 2

 お訪ね申し候処、不幸御他行にて懐ひ残り少なからず存じ奉り候。
 愈々只今より出足の覚悟に御座候間、差急に拝顔を得ず、
 残念の余り一筆留め置き候。

 今更申し上げ候迄も御座無く候得共、七百人の生死は搦手の遅速に関係仕り
 候事に付き、幾應も御尽力の上、急速御手下し相成る様、
 千万拝み祈り奉り候。

 何分皇國の興隆は合従の二字に有之候間、御國家の為に後来この上乍ら、
 御尽力偏へに願い奉り候、平常の御懇情一々、謝し難く、早々如此。
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。
                        匆々不一
     慶応三年九月二十五日   山田市之允
 木戸準一郎(孝允)様
Posted by 名無しさん at 2017年3月7日 09:19
「勤皇の大義」 3
 発するに臨み、再會期し難く、情緒万端筆墨あに之を尽くさんや。
 何卒御氣体御養護、邦家の為に、後年専用と存じ奉り候。


慶応三年十一月二十五日早朝、出動全軍鞠府に会し、総督毛利内匠の
軍令を伝え、八咫鳥神社に参拝して武運長久を祈った。
次いで総督及び参謀等は鞠府艦に、その他の属員は丙寅艦に塔乗し、整武、振武の両隊は
葵亥艦に、鋭武隊は丙辰艦に、第二奇兵隊は乙丑艦に、鋭武隊は満珠艦に、
奇兵、遊撃、膺懲の三隊は庚申艦に分乗し各艦一画三星の藩旗をひるがえし、
空砲七発をもって征途に上った。

●出兵協定を結んでいたにも拘らず、薩摩軍が約束の9月26日までに現れず、
地団駄を踏んだ長州藩でしたが漸く、10月3日に薩摩藩の初の軍船が三田尻に到着。
薩摩兵は藩重役と三田尻町民の大歓迎を受けています。
薩摩と長州が手を結ぶことで初めて勝ち目が出て来ました。大村益次郎は
長州藩の単独出兵には慎重でした。

蚤の心臓?山田市は徳川軍の大軍を前にとても勝てるとは思って
いなかったようです。
Posted by 名無しさん at 2017年3月7日 10:07
元治元年(1864)甲子7月19日京都蛤御門の変で敗れた長州藩は
慶応三年(1,867年)丁卵十二月十一日、諸隊総指揮官山田市之允に率いられ
再び入京。京都の地に現れる。「防長勤王史談」に記載されている当時の模様を下に掲げる。

(前日の)長州兵の入京(毛利内匠の小部隊)は夜半に相成り、格別人目には触れざりしが、
十一日奇兵隊其の他の入京は白昼のことにて、四年来初めての入洛なれば、
市民至るところに於いて、
弾薬袋の一字三星の紋を見て、長州ぢゃ長州ぢゃと人皆仰天し、涙を垂れて拝むものあり、
こわ(怖)やのこわやのといふものもあり、諸藩邸の人々は一目見て、奥に走り込む模様、
随分一時震動の勢いにつき、二条城に於いては長軍対戦の用意致し候由、
後に相聞きたり・・・・・・・云々。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月12日 09:34
山田市之允入京し、京都御所を拝して、かつて蛤御門に敗戦した往時を
思い浮かべて涙潜然、すなわち賦して曰く。

三軍來踞承明門
要表真誠訴宿冤
鳳詔方降紫宸殿
壮夫揮涙拝天恩


 読み下し

三軍來踞す承明門。
要を表して真誠宿冤を訴う。
鳳詔まさに降る紫宸殿。
壮夫涙を揮(ふる)って天恩を拝す。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年3月12日 09:58
【季節】東京都心の靖国神社で桜満開 気象庁の標準木 [無断転載禁止]©2ch.ne
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1491098679/l50



時々は日本軍隊創立者の
大村益次郎と弟子の山田顯義の事を
思い出してあげてください。

山田顯義が大村益次郎の鼻紙一枚に過ぎなかった
日本軍隊の構想を、山田顯義が
鼻紙に使わず国民皆兵制度(徴兵令の前身)を
実施したからこそ日本軍隊が
誕生しました。

    
「兵は凶器なり」この一言が
日本軍隊のスタートです。

Posted by 4月6日に靖国神社の桜満開! at 2017年4月2日 23:45
北朝鮮への先制攻撃「様々な選択肢」 米太平洋軍司令官
朝日新聞デジタル 

米太平洋軍のハリス司令官は26日、米下院軍事委員会公聴会で、
北朝鮮に関して「米国は先制攻撃の様々な選択肢がある」と述べた。
原子力空母カールビンソン率いる空母打撃群が沖縄東方を航行しており、
北朝鮮を攻撃できる射程内に入ったことも明らかにした。

 ハリス司令官は、北朝鮮への先制攻撃の可能性を問われ、具体的な
作戦計画についての言及を避けながら、先制攻撃の「様々な選択肢がある」と述べた。

 北朝鮮の反撃による南北朝鮮や米中間の紛争の可能性については
「マネジメント可能なリスクだ」と発言。在韓米軍への被害について問われると
「もし北朝鮮が核兵器(保有の)目標を達成すれば、大勢の韓国人や日本人も犠牲になる」とし、
北朝鮮が本格的な核保有国になる前に対処すべきだとの考えを示した。

 ハリス氏は、空母について「カールビンソン空母打撃群は沖縄東方におり、
北朝鮮への攻撃射程内にある。北方に航行を続ける」と語った。
北朝鮮について「地域で最も切迫した脅威だ」とも強調。
「米太平洋軍は今夜でも戦闘できるよう準備しなければならず、
米本土と同盟国を防衛するため、あらゆる可能なステップを
熟考する必要がある」と語った。(ワシントン=佐藤武嗣) 朝日新聞社

〇来るべきものが来ましたね。やるほかにありません。
 平和と国民を守るためには戦が必要な時も稀にあります。
 外科手術で腐敗した部分を取り除かねばなりません。

 ミサイルの開発と核兵器開発がこれ以上進めば、
 周辺国には大変な脅威になります。

 話し合いは大切ですが話し合いが通じない相手もいます。
 犠牲を最小限にするために先制攻撃でやって欲しいね。
 同盟国の韓国や日本にも、そして中国にも事前連絡は
 必要ありません。電撃作戦で北のトップを除去して欲しいです。

 日本の軍隊を作った大村益次郎、山田顯義(市之允)も
 先制攻撃を支持すると思います。北の国民も、韓国、日本も
 今まで大変な負担を強いられていました。必要最小限な
 負担で北のトップを除去したい。

    なんでも鑑定団 愛のエメラルド
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年4月27日 07:45
山田顯義伯爵は五稜郭の戦いでは
官軍の海陸軍参謀。一番偉い人です。
五稜郭の戦いで見事、榎本武揚軍を
壊滅させました。土方歳三は戦死。

江戸に凱旋後、山田の師匠大村益次郎に
接待されましたが出たのはお酒と豆腐2丁。
戦争中、碌なものを食っていなかった山田顯義は
これにはご立腹、酒は飲んでも豆腐には箸を付けなかったそうです。

でもね晩年、山田顯義伯爵は堅いものは食べられなくてね。歯が弱くて
入れ歯だラケ。明治20年前後のことだけどね。
で、食べるのは柔らかくて栄養のある湯豆腐という事になりました。
豆腐は大村先生に言わすと滋養になるらしい。

   
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年5月8日 17:12
長州藩の麒麟児高杉晋作も
肺結核が進み遂に立てなくなると
諸隊の隊長たちが集まって善後策を相談。

高杉晋作に後継者に誰を託すのかと一同雁首を並べて
問いただすと後は(村医者の)大村益次郎に頼めとの事。
大村の後は誰に頼めばいいのだろうと再度、
問いかけると山田市之允(山田顯義)が良かろうとのご神託。
山田は当時22歳。身長148aの小童。

山田の後は誰が宜しかろうといわれると
高杉晋作は「そんな先のことまで僕にわかるわけはなかろう」と
言ったという。

高杉晋作の目に狂いはなく、大村・山田の2トップは
戊辰戦争を終わらせたばかりでなく、
国民皆兵制度(徴兵令の前身)、日本軍隊誕生に向けて大車輪の活躍。
遂に日本軍隊を誕生させました。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年5月8日 17:35
明治天皇陛下に愛された山田顯義

誰にも知られてはいませんが山田顯義伯爵と
明治天皇陛下の結びつきは強いよ。
歴史好きなら山田顯義と明治天皇の
強固な結びつきに注目してほしいな。

司法大臣山田顯義は条約改正の前提条件である法典編纂を陣頭指揮、
日に夜を継いで、短期間の間に商法や民法を完成させてしまうんだな。
明治天皇は一途に近代国家に日本を作り上げていく山田顯義に
限りなく共感したんだなぁ。

ただなぁ強引ともいえる山田顯義の押しに反発する法律学者も出たんだなぁ。
帝国議会の無かった時ならいざ知らず、帝国議会が出来た後ではなぁ
さすがの明治天皇陛下も躊躇、各大臣も山田顯義に手を貸すことは出来なかった。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 09:03
山田顯義は商法と民法が第1回帝国議会で否決されたのに憤慨、
病気を理由に辞表を出すんだなぁ。ところが明治天皇陛下が
頑として受け取らない。
山田顯義の辞職をどうしても受け取らない。
明治天皇は山田顯義に心の師匠として
補佐して貰いたかったんだな。

天皇陛下は年齢も近く懇切丁寧、
虚勢を張らない。
強力な推進力で日本を法治国家に
作り上げていく山田顯義を
高く評価していました。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 09:11
明治天皇陛下に愛された山田顯義

辞表提出 1
 
 その時こそ辞職して然るべしというのは、事情があった。
明治二三年一二月、両院が商法施行延期法案を可決したため、
山田法相は辞表を提出し、出仕をやめてしました。

天皇は山田の辞職を許さず、大木喬任枢相をして
司法大臣を臨時兼任させた。
そのため、翌二四年一月には、在京の司法官三〇人程が
連署して、山田の復職を求める騒ぎが出来したのである。
Posted by 名無しさん at 2017年6月19日 09:13
明治天皇陛下に愛された山田顯義

辞表提出 2

 ちなみに、第1議会が閉会すると、四月七日、
山田は山県首相の辞表より二日早く、
辞表を提出した。
同じ四月七日、天皇は、法律取調委員長として民法、商法などの
編纂に尽瘁した功を賞して、山田を正二位に叙した。
薩長の元勲、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋らが揃って
従二位の中で、年少の山田一人を陞叙したのである。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 09:15
明治天皇陛下に愛された山田顯義

辞表提出 3

 五月六日、松方が首相に就任すると、山田は
五月一一日、みたび辞表を提出した。
まさしくこの日、大津事件が突発したため、
辞表は宙ぶらりんになった。
尾崎三良らは、山田の二度目、三度目の辞表の話は
知らなかった。

   参考文献「大津事件」 司法権独立の虚像
   新井勉日大法学部教授 批評社 1,800円+税
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 09:17
疑問なのは、天皇陛下もこの像に高い所から見おろされながら通られたのだろうかということ。
上から見おろすばかりか、参道の中央に立ってご通行を邪魔するという不逞ぶりである。まるで「長州にひざまづけ」と言わんばかりではないか。

失礼にもほどがあるし、それこそ「不敬」以外の何ものでもない。山本太郎の直訴などかわいいもんである。

これはいけません。
天皇陛下はもちろんのこと

〇このご意見は間違いではなかろうか。
 靖国神社の銅像は今は亡きご師匠の
 大村益次郎先輩をしのんで
 門人の山田顯義が建立したもの。

 明治天皇陛下も年齢も近く、大好きな山田顯義が
 主唱した大村益次郎の銅像を仰ぎ見るとき
 限りない喜びを感じたのではあるまいか。
 大村益次郎の精神は山田顯義に継承され、
 さらに大村山田コンビの精神は明治天皇陛下に
 受け継がれたのではないでしょうか。
 
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 09:29
明治天皇陛下は
山県有朋、黒田清隆、陸奥宗光、乃木希典、井上薫などは
大嫌いだったよし。

戦下手と虚勢を張るタイプが大嫌いだったんだね。
裏表のない正直者とビジョンの実現できるタイプが好みかな。
その点、伊藤博文と山田顯義は明治天皇陛下に大変好かれました。

明治天皇陛下は大村益次郎、山田顯義の
門下生のつもりでいたのかもしれません。
大村益次郎の銅像を仰ぎ見るとき、
明治天皇は忠義者の山田顯義の顔が浮かんできて
嬉しかったと僕は思います。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 09:48
私、確かに天皇陛下は靖国神社の大村益次郎を仰ぎ見る形にはなるんだが
嫌がっているとは思わないな。むしろ天皇陛下とも年齢の近いちびっこの
山田顯義のことが思い出されて嬉しかったのではないのかなぁ。
もちろんこれが同じ長州藩でも嫌われ者の
山県有朋、井上馨、青木周蔵では話が違うかな。

明治天皇陛下は誄(ルイ)のなかで山田顯義の生前時の功績を讃えています。
朕尚其比翼ヲ望ミシニ 遂に渝亡ヲ聞ク

(功臣の死亡に対する弔意のお言葉を、お受けする側からはこれを誄という。) 


       誄

夙二王室ノ式微ヲ慨シ 遂二中興ノ偉業ヲ賛ス 勇決難二膺り黽勉(ビンベン)法を編シ
心を秉(ト)ル 忠誠勲績大に彰ル 而して年末タ知命二迨(オヨ)ハス
朕尚其比翼ヲ望ミシニ 遂に渝亡ヲ聞ク 曷(イズクン)ソ軫悼二勝ヘン
茲二侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎ラシ 以テ弔慰セシム
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月19日 14:17
陣頭指揮突貫小僧の山田顯義もついに最後を迎えるんだな。
吉田松陰、高杉晋作、大村益次郎、木戸孝允、三条実美等の死去を悲しんだ
山田顯義にも最後の時がやってきます。山田顯義は青年時は木戸孝允、
大村益次郎等のご愛顧を受けるんだが、政府の高官になってからは気持ちを
打ち明けられる人がいなかったと思われていました。
でもなぁ、明治天皇陛下に最高の評価をされていたんだなぁ。
大村益次郎の門人山田顯義の最大の理解者は天皇陛下でした。

夙二王室ノ式微ヲ慨シ 遂二中興ノ偉業ヲ賛ス 
忠誠勲績大に彰ル 朕尚其比翼ヲ望ミシニ 遂に渝亡ヲ聞ク
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月20日 07:32
山田伯を悼むの辞 1     (明治25年11月12日国民新聞)

 山田伯は戦術家として故大村益次郎の衣鉢を伝えたる随一なり、
伯が奇策縦横常に敵の意表に出て、神算冥合よく
勝ちを千里の外に制するに至りては「小ナポレオン」の綽名決して過当とせず。
若しそれ伯が司法の長官若しくは次官として成就したる功に至りては亦
決して没すべからざるものあり。

 固より司法の基礎を定めたる創業に至りては江藤新平を推し、
其の継承者に至りては大木伯を推すも、千瘡百孔あるに係らず立憲国の司法部として
其の体面において恥かしからぬ迄に進歩せしめたもの実に伯を推さざるを得ず。
司法部に関しては伯は実に三代将軍の位置に立つと云ふも
不可なきけり。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月20日 08:35
山田伯を悼むの辞 2

 刑法、治罪法の実施、裁判所構成法の実施、
民法、商法、訴訟法の編纂若くは
ポアソナード氏をもって其の下手とせば
其の指揮者は実に伯に在りと云はざるべからず。

 若し賞辞を以て伯が頭上に加へば、伯は我が法律世界に於ては
ジョステニアンの位置に相当するものと云ふべし。
而して法典問題に就ては衆論沸騰、名公巨卿往々其の方向に惑い、
当時の断行熱心者は却て、今日の延期熱心者となり、宮中の旗も
ままならざるに、伯独り毅然として断行に熱心し、
身を以て法典と始終し、終に切言すれば身を以て法典に
殉じたるは、其の志亦悲しからずや。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月20日 09:06
山田伯を悼むの辞 3

 昔、ピットがナポレオンと欧州の大陸に抗衝するや、病に臥して
オーストルレズの敗報に接す。ピット欧州の地図を指し揚言して曰く、
巻け此の地図を、今後亦用ゆる所なけんと。史家嘆じて曰く、
オーストルレズの敗報実にピットを殺すと。

 今や山田伯が死生を託したる法典延期案裁可せられんとす。
後世の史家をして忌憚なく断ぜしめば当に云ふ可し、
山田伯法典の為に殉ずと。(中略)

 山田伯の平生に就いては、特に其の政治的意見と行為とに就いては
吾人甘心せざるところ頗る少しとせず、然れども今日は之を論ずるの
日にあらず、吾人は唯我が国民と共に、明治の一功臣を
失ふたるを歎惜し、其の記念を国民の感思に永ふせんと
欲するの情に禁へざる也。   
              国民新聞 執筆は徳富蘇峰
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月20日 23:17
故郷の鋳銭司郷に大村益次郎の銅像建立計画

没後150年に向け 銅像建立へ寄付金呼び掛け 山口の実行委、事業計画1年前倒し /山口
毎日新聞2017年5月30日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20170530/ddl/k35/040/499000c

 日本の近代兵制を整えた大村益次郎(1825〜69)の
没後150年事業実行委の総会が、
山口市の鋳銭司(すぜんじ)地域交流センターで開かれた
。来年の明治維新150年に合わせて事業を1年前倒しにする計画で、
今年度は益次郎の銅像建立に向けた寄付金集めに取り組む。 (中略)

 建立予算は800万円。総会では、地元で子どもの見守り活動などに取り組む
「鋳銭司郷(さと)を愛する友の会」が、寄付第1号として20万円を実行委に贈った。
費用の半分を住民や地元企業の募金で賄い、残りを首都圏などに住む
県内出身者らに呼びかけて集める方針。
 
実行委によると、益次郎の没後150年は2019年だが、各地が盛り上がる
維新150年に合わせて前倒しし、PRのため益次郎の歩みを描いた
本の出版など各種事業を展開している。【祝部幹雄】

〇山田市之允(顯義)のお師匠さんにあたる大村益次郎先生の
 銅像が山口県の出身地でも出来るよし。大変嬉しいです。にっこり。
Posted by なんでも鑑定団 愛のエメラルド at 2017年6月21日 09:01
コメントを書く
お名前:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/388231675
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック