2014年2月19日

「誠を捧げる」の使われ方への疑問

靖国参拝に関連して、「哀悼の誠(あいとうのまこと)を捧げる」あるいは「感謝の誠を捧げる」という表現をよく耳にする。
昨年12月26日に靖国神社を参拝した安倍氏も記者団への談話でこれを用いていた。

 本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。
(平成25年12月26日 安倍内閣総理大臣の談話〜恒久平和への誓い〜 | 平成25年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ)
http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/discource/20131226danwa.html

「誠〈まこと〉」はデジタル大辞泉では
[名]
1 本当のこと。うそ・偽りのないこと。「うそから出た―」「―の武士」
2 誠実で偽りのない心。すなおでまじめな心。「―の情」「―を尽くす」
3 歌論・俳論用語。作品に現れる作者の真情・真実性。
と解説されている。
「誠を捧げる」の「誠」は2の「誠実で偽りのない心。すなおでまじめな心。」であろう。
これは世界大百科事典 第2版の
心の〈まこと〉すなわちいつわりない忠実な心,誠意という意味
に相当する。(誠 とは - コトバンク

疑問なのは自身の行った行為について「誠を捧げる」と表現するのが、はたして適切かどうかということ。

他の人に対して「誠を捧げなさい。」あるいは「あの行為は誠を捧げるものだ。」と表現することには不自然さは感じないが、自分自身に対して用いるのには違和感を覚える。
想像だが、身近な人や親しい戦友を亡くした人は「誠を捧げて来た。」とは軽々しく口にしないのではないだろうか。

8月15日の頃になると、自身が靖国神社に参拝する写真をこれ見よがしにネットにあげる議員を見かけることがあるが、自分の行為に対して「誠を捧げる」を用いるのには、どこかそれに近い軽薄さが無いだろうか。

「誠心誠意」、「真摯に」等のことばも、こと政界においては濫用されているように感じる。

タグ:ことば 靖国
posted by ぱじぇんと | コメント(3) | トラックバック(0) | 本編
この記事へのコメント
長州語には『〜したい』(I (would) like to 〜)と言う語法がないのかも知れません。
 「誠を捧げたく」ならば普通に意味は通りますが『〜したい』と言う言葉がないと「誠を捧げる」としかならない訳です。
 その場合の「捧げる」は"I tribute my loyalty"ではなく"(to) tribute a loyalty"と言っている訳であり、私に誠が既にあるからと言う意味ではなくそのためには誠がなくてはならないと言う意味な訳です。
 例えば日本の英語教育においては『〜したい』を訳す場合に"I want to 〜"と訳せと教えられます。然し"to want"は『欲する』や『して欲しい』と言う意味であり、『〜したい』とは照応しません。何故そうなったか、日本に英語が入って来た頃に権力に与していた長州閥が"(would) like to"の処か日本語の『〜したい』の意味も分からなかった(そもそもは公家の言葉であるし。)ので"to want"だけになってしまったのではないかと考えられます。然し「誠を捧げさせて欲しい」では式に馴染みません。よって名詞的に「誠を捧げる」、"to tribute a loyalty"と言うしかないのです。軽薄と言うよりも観念的で公私の作法の違いが大きい(『欲しい』はより私的な表現である。)と見るべきでしょう。安倍総理が公邸に住みたがらないのも普段の習慣が公邸の雰囲気には馴染まないので抵抗感があると謂う心理があるのかも知れません。何しろ長州武士はその格好も簡素であるらしいですし。
 時代が進むと天皇も『〜したし』とは言わずに『〜せんと欲す』と言い記すようになりました。長州語が皇室にも入ってしまったのかも知れません。
Posted by keitan at 2014年7月9日 19:31
keitanさん
興味深い分析をして頂いて有難うございます。

おっしゃるように「誠を捧げたく、お祈りしました。」であればまったく違和感はありません!そこには「出来たかどうか分からないが、」という謙虚ささえうかがえます。
ですが残念ながら、当該の談話は一連の過去形のものとして語られているとしか思えません。
山口の人も何かを「したい」と訴えることはあるはずなので、山口方言に「〜したい」という語法が存在しない可能性というのも考え難いと思います。現代の日本に生きる安倍氏からその方言に対応する標準語「〜したい」が出て来ないというのもです。

それから、自宅の方が馴染めるというのは確かにあるでしょうけど、総理大臣を務めるからには24時間総理大臣でいる覚悟を持ってもらわないと困ります。
総理大臣とはそういう立場なのだと思います。

明治以降の天皇陛下の「朕」「〜せんと欲す」等の漢語使用は、長州語の影響というより天皇神格化と関係があるのではないでしょうか。
現在の今上天皇は公の一人称として「わたくし」を使われているようですし、昭和天皇も文書やその朗読以外の口語では「わたし」(プライベートでは「僕」)を用いておられたようです。
http://bit.ly/1eeQQri(日本語の一人称代名詞 - Wikipedia)

ハンドルネームのリンクにあったkeitanさんのブログ「CYBER ECOLOGY 2014」、少し拝見しました。
「拙速」という言葉についての考察はとても興味深かったです。
http://keitan0202.exblog.jp/19978110/(【変な言葉】「拙速な閣議決定」 : CYBER ECOLOGY 2014)

是非またご意見お聞かせ下さい。
Posted by すだち at 2014年7月9日 20:48
私が変なのでしょうか? 全く違和感もなにも覚えません。
理由として、誠の文字を解字してみました。「言」と(成)になります。
言はそのまま言葉です。そして、成はというと、古事記の中のイサナキ神による三貴神の
誕生です。このとき、マトモな書籍ではイサナキ神が目や鼻を禊されたとき「成った」と
書かれています。決して「生まれた」や「産まれた」ではありません。
ですから、二つを合わせると、「言葉が成る」あるいは(言葉から成る)ということです。
そうです。言霊です。前段あるいは後段の言葉が成就して欲しいという意味です。

「哀悼の誠を捧げます」は、哀悼という言葉の持つ心を捧げ、その言葉の心が成就して英霊の
方々に伝われば、これに勝る幸いはありません。そして感謝を申し上げ、英霊の皆様に
ご安心を頂けるよいに、微力ながら頑張ってゆきたいと存じます。

私は上記のようにこの言葉を使い、そして上記のごとくお参りをしてまいりました。
昨年の5月の中旬の頃でした。

ですから、この言葉を使われた政治家の方々には、なんの違和感も不満もありません。

私は極右でもなんでもありません。ごく普通の日本の国民です。
Posted by 木村泰章 at 2017年7月10日 04:46
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